波は心のかたちをしている
感情は、ときどき厄介なものとして扱われます。なるべく乱れないように、なるべく表に出さないように、なるべく冷静であるように。私たちは日々の暮らしのなかで、そうした態度を少しずつ身につけています。それは社会のなかで生きるために必要な知恵でもあるのでしょう。ただ、絵を描いていると、その「整えておく」という感覚だけでは届かない場所があることを思い知らされます。
感情は、思っている以上に複雑です。うれしい、かなしい、腹が立つ、不安になる。言葉にしてしまえば短いのに、実際の感情はそんなふうにきれいに分類できません。喜びのなかに不安が混じることもあれば、怒りの奥に傷つきや寂しさが隠れていることもあります。自分でも正体のわからない揺れを抱えたまま、一日を過ごしていることは少なくありません。そしてその揺れは、絵の前に立つと、思いがけず輪郭を持ちはじめます。
私は感情を、よく波のようなものだと感じます。大きく押し寄せる日もあれば、ほとんど気づかないほど静かな日もある。同じ海であっても、昨日と今日ではまったく表情が違うように、心もまた一定ではありません。にもかかわらず、私たちはしばしば「昨日できたのだから今日も同じようにできるはずだ」と考えてしまいます。穏やかな自分だけを本当の自分だと思い、乱れた自分をどこか仮の姿のように見なしてしまう。でも本当は、そのどちらも自分の一部なのだと思います。
波を止めようとすると苦しくなる
若い頃は、感情の波が来るたびに、それをどうにか抑え込もうとしていました。苛立ってはいけない、落ち込んではいけない、不安になってはいけない。そうやって自分を管理しようとするほど、かえって心の中は騒がしくなっていきます。波を消そうとすればするほど、水面は不自然に緊張してしまうのかもしれません。
もちろん、感情にそのまま振り回されることがよいとは思いません。誰かにぶつけてしまえば、別の痛みを生むこともある。だからこそ必要なのは、感情を消すことではなく、それが来ていると気づくことなのだと思います。いま自分は焦っている。少し傷ついている。説明できないざわつきがある。そのことを、まず自分で見つけてあげる。たったそれだけでも、波との関係は少し変わります。
絵を描くことは、その確認の作業に似ています。色を置いてみる。線を引いてみる。少し離れて見る。すると、さっきまで言葉にならなかったものが、青の濁りや、白の重なりや、ためらいのある筆致として現れてくることがあります。私はそれを、感情を説明しているとは思っていません。むしろ、感情がそこに居られる場所をつくっている、という感覚に近いです。
ひとつの波だけで心はできていない
感情の波というと、多くの人は激しい起伏を思い浮かべるかもしれません。たしかに、大きな出来事のあとには大きな波が来ます。別れや喪失、失望や歓喜のあとで、心が大きく揺れるのは自然なことです。でも、実際に私たちを形づくっているのは、そうした大きな波だけではないように思います。もっと小さく、名前もつけにくい揺れが、一日のなかに何度も生まれては消えています。
朝の光を見たときに少しだけ救われること。人の何気ない言葉が、思った以上に胸に残ること。理由ははっきりしないのに、今日は世界との距離が少し遠く感じられること。そうした小さな波は、見過ごされがちですが、絵にはむしろそのようなもののほうが静かに染み込む気がします。大きな感情は輪郭を持ちやすい一方で、小さな感情は色の温度や余白の息づかいとして現れるからです。
制作を続けていると、自分の絵には、その時々の感情だけでなく、長く続いている心の潮の満ち引きのようなものが出ると感じます。ひとつの作品だけ見れば静かに見えても、何枚か並べると、ある時期に内側で何が揺れていたのかが見えてくることがある。本人ですら制作中には気づいていなかったものが、あとになって現れるのです。絵は、その瞬間の記録でありながら、同時に、自分でも読み切れていなかった感情の地層を映すものなのかもしれません。
静けさは、波がなくなった状態ではない
私は昔、静かな絵を描きたいと思うたびに、自分の感情まで静かでなければならないと、どこかで考えていました。しかし今は、静けさとは無感情であることではないと思っています。むしろ、さまざまな波が内側にありながら、それらを無理に否定せず、ひとつの画面のなかに置いておける状態のことを、静けさと呼ぶのではないでしょうか。
海も、表面だけ見れば穏やかに見える日があります。それでも深い場所では、水は絶えず動いている。心も同じで、本当に静かな人とは、何も感じない人ではなく、感じながらも壊れずにいられる人なのだと思います。絵もまた、激しい感情を排除して静かになるのではなく、そこにある揺れを受けとめることで、結果として静かな佇まいを持つことがあるように感じます。
だから私は、制作のなかで感情を整えようとはしても、消そうとはしません。不安な日は、不安なまま筆を持つことがあります。迷いのある日は、その迷いをすぐに解決しようとせず、画面の前で少し立ち止まります。すると、感情が邪魔をしていると思っていた時間が、実は作品に深みを与えていたのだと、あとで知ることがあります。
波とともに描くということ
感情の波は、なくならないのだと思います。年齢を重ねれば穏やかになる部分はあっても、揺れそのものが消えるわけではない。むしろ、以前よりも細やかな揺れに気づくようになることさえあります。大切なのは、波のない場所に行こうとすることではなく、波がある海でどう立っているかを覚えていくことなのかもしれません。
描くという行為は、その練習のようでもあります。今日は少し荒れているなと思いながら色を選ぶ日もある。今日はなぜか光がやわらかく見えると思いながら、薄い層を重ねる日もある。感情を材料にする、というと少し強すぎますが、感情とともに手を動かしていくことは、間違いなく制作の一部です。
読んでくださっているあなたにも、きっと言葉にしきれない揺れがあるのだと思います。うまく説明できないまま過ぎていく日もあるでしょう。けれど、その揺れは、ただ面倒なものではないのかもしれません。波が砂浜の形を少しずつ変えていくように、感情もまた、目には見えないかたちで私たちの内側を彫っている。その変化の跡に、ようやく自分らしさと呼べるものが宿るのではないか。そんなことを、絵を描きながら考えています。
感情の波に呑まれないことは大切です。ただ、波が来ること自体を失敗のように考えなくてもいい。静かな日にも、荒れた日にも、それぞれの光がある。絵は、そのことを私に何度も教えてくれます。そして私は今日も、完全に穏やかではない心のまま、ひとつの色を置いてみるのです。