遠ざかる記憶に、色はなお残る
記憶は、私たちの意思とは関係なく、少しずつ遠ざかっていきます。
はっきりと覚えていたはずの風景や声の調子が、ある日ふと曖昧になっていることに気づく。細部は削られ、輪郭はやわらぎ、やがて形を失っていく。それでも、不思議なことに、完全に消えてしまうわけではありません。
私は絵を描きながら、遠ざかる記憶のことをよく考えます。描こうとする対象は、目の前の現実というよりも、すでに少し距離のあるものだからです。
輪郭がほどけるとき
たとえば、子どもの頃に見た夕暮れの色。あの空がどんな青で、どんな橙だったのか、正確には思い出せません。けれど、胸の奥に残る温度のようなものは確かにある。
記憶は、具体的な形から先にほどけていきます。建物の窓の数や、隣にいた人の服の柄は消えていく。けれど、空気の湿り気や、光の傾き、言葉にならない感情だけが残る。
抽象画を描くという行為は、その「残ったもの」に触れようとする試みなのかもしれません。写実のように細部を再現するのではなく、むしろ失われていく過程そのものを受け入れる。輪郭がほどけたあとの、かすかな気配をすくい取る。
キャンバスの上で形が曖昧になるたびに、私は少し安心します。はっきりしないことは、欠落ではなく、自然な変化なのだと感じられるからです。
消えるのではなく、沈殿する
記憶は消えるのではなく、沈殿していくのではないかと思うことがあります。水の底に静かに積もる砂のように、目には見えにくい層となって、私たちの内側に残り続ける。
制作中、ふと選んだ色が、なぜか懐かしいと感じることがあります。意識して思い出したわけではないのに、どこかで触れた光や壁の色が、手の動きとして現れてくる。その瞬間、遠ざかったはずの記憶が、かたちを変えて立ち上がるのです。
それは、正確な再現ではありません。むしろ、誤差を含んだ再会です。けれど私は、その誤差を大切にしたいと思っています。正しさよりも、今の私を通してにじみ出る色のほうが、真実に近いと感じるからです。
遠ざかることで、記憶は純化されていくのかもしれません。余計な情報が削ぎ落とされ、最後に残るものだけが、静かに光る。
距離が生む静けさ
もし記憶がいつまでも鮮明なままだったら、私たちは過去に縛られてしまうでしょう。遠ざかるからこそ、今を生きる余白が生まれる。
制作の中で、私はよく「どこで終わらせるか」を考えます。描き込みすぎれば、息苦しくなる。少し物足りないところで筆を置くと、画面に静けさが残る。その静けさは、遠ざかった記憶と似ています。
すべてを語らないこと。すべてを思い出そうとしないこと。そこに、柔らかな距離が生まれる。その距離の中で、色は呼吸を始めます。
あなたの中にも、遠ざかっていく記憶があるでしょう。細部は思い出せなくても、なぜか忘れられない光景。理由のわからない懐かしさ。その曖昧さは、失われた証ではなく、あなたの内側に沈殿した証かもしれません。
私は今日も、遠ざかるものに耳を澄ませながら、キャンバスに向かいます。消えていくのではなく、かたちを変えて残り続けるものを、静かに受けとめるために。