2026.03.01 · JOURNAL

まだ来ぬもの、すでに去ったもののあわいで

まだ来ぬもの、すでに去ったもののあわいで

未来と過去。その二つは、いつも私の制作の背後にひっそりと立っています。どちらもこの手では触れられないのに、絵を描こうとするとき、確かにそこに在る。キャンバスの前に立つと、まだ見ぬ未来の気配と、すでに終わった時間の残響が、同時に呼吸を始めます。

私たちは今を生きているはずなのに、今だけで生きることはできません。記憶は静かににじみ出し、予感は輪郭を持たぬまま揺れている。そのあわいに、色は立ち上がるのだと、私は思うのです。

過去は沈黙の層として

過去は、決して騒がしくはありません。むしろ、深い沈黙の層として、私の内側に堆積しています。幼い頃に見た夕暮れの色、言葉にならなかった感情、もう会うことのない人の気配。そうしたものは、明確な形ではなく、色の温度や、筆の速度として現れてきます。

ときどき私は、自分が新しい絵を描いているのか、それとも過去をなぞっているのか、わからなくなることがあります。けれど、それでよいのだと思うのです。過去は修正されるものではなく、変奏されるものだからです。同じ旋律が、違う調で奏でられるように、記憶は今の私の手を通して、別の響きを帯びます。

あなたにも、ふとした瞬間に蘇る色や匂いがあるのではないでしょうか。それはもう戻らない時間でありながら、確かに今のあなたを形づくっている。過去は背後にあるのではなく、内側にあるのだと、私は制作を通して知りました。

未来は輪郭のない光として

一方で、未来は常に曖昧です。完成図を明確に思い描いてから描き始めることは、私にはほとんどありません。むしろ、わからなさの中に身を置くことから始まります。次の一筆が何をもたらすのか、確信はありません。ただ、かすかな光の方向だけを感じています。

未来は計画というより、予感に近い。まだ存在しないものを信じるという行為は、少しだけ勇気が要ります。ですが、その不確かさがあるからこそ、絵は呼吸を持つのだと思うのです。すべてが決まりきっているなら、そこに余白は生まれません。

未来とは、完成した形ではなく、問いのまま差し出される光なのかもしれません。その光に向かって筆を進めるとき、私は自分が生きていることを、わずかに実感します。

今という、交差点

では、今とは何でしょうか。過去と未来がすれ違う、ほんの一瞬の交差点。私はその場所に立ちながら、色を重ねています。背後からは記憶が静かに押し、前方からは予感がかすかに引く。その均衡の中で、絵はかたちを帯びていきます。

制作とは、過去に囚われることでも、未来を支配することでもありません。ただ、その二つのあいだで揺れながら、今を受け取ることなのだと思います。だからこそ、私はキャンバスの前で、急がないようにしています。急げば、どちらか一方に偏ってしまうからです。

もしあなたが、過去を悔やみ、未来を案じているなら、ほんの少しだけ立ち止まってみてください。今という場所は、思っているよりも広く、静かです。その静けさの中にこそ、まだ見ぬ色が潜んでいます。

未来と過去。そのどちらも抱えながら、私は今日も絵を描いています。触れられない時間に触れようとする、そのささやかな試みが、私にとっての制作なのです。