終わりを決めるという静かな決意
制作をしていると、いつも同じ問いに行き当たります。
「これは、いつ終わるのだろうか。」
描き始めるとき、私は完成の姿を明確に思い描いているわけではありません。むしろ、分からないからこそ描き始めます。色を置き、拭い、重ね、削り、また遠ざかる。その往復のなかで、絵は少しずつ呼吸を始めます。
けれど、どこかで必ず、筆を置く瞬間が訪れます。
それは自然にやってくることもあれば、意識して決めなければならないこともある。今日は、その「終わりを決める」ということについて、少しだけお話ししてみたいと思います。
完成は訪れるのではなく、選び取るもの
若い頃の私は、完成というものがどこかからやって来ると信じていました。ある瞬間、すべてが整い、「これでいい」と確信できる合図が鳴るのだと。
しかし実際には、そんな明確なサインはほとんどありません。
もう少し深い色にできるのではないか。
あと一筆で、均衡が変わるのではないか。
その誘惑は、いつも静かに残り続けます。
だからこそ、完成とは「訪れるもの」ではなく、「選び取るもの」なのだと思うようになりました。どこかで、自分の中に線を引く。これ以上は加えない、と決める。その決断が、作品を一つの存在として世界に立たせるのだと。
終わりを決めることは、可能性を閉じることでもあります。もっと良くなったかもしれない未来を、自ら手放すことです。けれど同時に、それは作品を外へ送り出すための責任でもある。いつまでも手元に留めておけば、絵は永遠に未完成のまま、私の内側に閉じ込められてしまいます。
終わりを決めるとは、諦めることではありません。むしろ、その時点での最善を信じるという、静かな勇気に近いのです。
余白を残すために終える
私は、描き込みすぎた画面に、どこか息苦しさを感じることがあります。すべてが説明され、すべてが埋め尽くされている状態。そこには安心感もありますが、同時に、見る人が入り込む余地が少なくなってしまう。
終わりを決めるという行為は、その余白を守ることでもあるのだと思います。
あと一色を重ねれば、構図はより安定するかもしれない。
あと一線を引けば、意味はより明確になるかもしれない。
けれど、あえて止める。
曖昧さを残す。
整いきらない部分を、そのままにしておく。
そこに、見る人の時間が入り込む余地が生まれます。
解釈や感情が、静かに滲み込んでいく空間ができる。
音楽でいえば、最後の和音を強く鳴らすのではなく、余韻の中に溶かすような終わり方に近いかもしれません。私はクラシックやジャズをよく聴きますが、強烈なフィナーレよりも、ふと空気に消えていくような終止に心を動かされることがあります。そこには「終わった」という宣言よりも、「続きがある」という感覚が残るからです。
絵も同じで、完全な完結よりも、わずかな未完を残した方が、かえって長く呼吸するように思うのです。
人生の小さな終止符
制作だけではありません。私たちは日々、さまざまな「終わり」を決めながら生きています。
今日はここまでにする。
この関係は手放す。
この考え方を、いったん終える。
終わりは、どこか寂しさを伴います。けれど、終わりがあるからこそ、新しい始まりが生まれる。描き終えたキャンバスの横に、新しい白い面が立ち上がるように。
もし終わりを決められなければ、私たちはずっと同じ場所に留まり続けてしまいます。未完成のまま抱え込み、次へ進めなくなる。だからこそ、ある地点で区切りをつけることは、自分自身を前に進ませるための選択でもあるのでしょう。
私はいまも、制作のたびに迷います。
本当にここで終えてよいのか、と。
けれど最後は、静かに深呼吸をして、筆を置く。その瞬間、画面はようやく私の手を離れ、一つの存在として立ち上がります。
終わりを決めることは、作品を信じること。
そして、自分自身を信じること。
あなたは、最近どんな「終わり」を決めましたか。
もし何かを抱え続けているのなら、一度そっと区切りをつけてみるのも、悪くないかもしれません。終わりは、決して冷たいものではなく、次の余白をつくるための、静かな線引きなのですから。