かたちの向こうに触れる——写実という静かな問い
写実という言葉を聞くと、多くの人は「本物そっくりに描くこと」を思い浮かべるのではないでしょうか。細部まで正確に、光の当たり方や質感まで忠実に再現する。それは確かに高度な技術であり、長い時間をかけて積み重ねられてきた絵画の歴史のひとつの到達点でもあります。
けれど、抽象画を描いている私にとって、写実は単なる技法ではありません。それはむしろ、「私たちは何を見ているのか」という問いを突きつける、静かな入り口のようなものです。
見えている、という思い込み
たとえば、目の前に置かれた林檎を描くとします。赤い皮の艶、わずかな傷、光の反射。写実は、それらをできるだけ忠実にキャンバスへ移す営みです。
けれど、私は制作の途中でふと立ち止まります。私は本当に林檎を見ているのだろうか、と。
「林檎」という言葉を知っている。甘い果実であることも知っている。その知識が、私の視界をすでに塗り替えてはいないか。丸い、赤い、という先入観が、形を固定してはいないか。
写実とは、見えているものを写すことではなく、見えていると思い込んでいるものを一度ほどく作業なのではないか。そんな感覚が、年々強くなっています。
私は抽象画家ですが、写実的な観察の時間を大切にしています。形を崩す前に、徹底的に見る。色を解体する前に、光の移ろいを追う。その過程で気づくのは、世界が決して輪郭だけでできているわけではないということです。
輪郭は、思考があとから引いた線にすぎない。実際には、色はにじみ、光は揺れ、境界は曖昧です。
写すことと、触れること
写実という言葉には、「写す」という動詞が含まれています。しかし制作を続けるうちに、私は「触れる」という言葉の方が近いと感じるようになりました。
対象に触れようとするとき、人は自然と呼吸を整えます。急がず、決めつけず、ただそこに在るものと向き合う。写実もまた、そのような態度なのではないでしょうか。
正確さだけを追い求めると、絵はどこか硬くなります。けれど、対象の存在に静かに耳を澄ますように描いていくと、不思議なことに、細部はむしろ自然に立ち上がってきます。
抽象画を描くときも同じです。私は形を単純化し、色を重ね、構造を削ぎ落とします。しかしその土台には、写実的な観察が横たわっています。見たものをそのまま描くのではなく、見た体験そのものを抽出する。そのためには、いったん対象の具体に深く降りる必要があるのです。
写実と抽象は対立するものではありません。むしろ、両者は同じ根を持っていると感じています。世界に触れようとする真摯な姿勢。その姿勢が、結果として細密画にもなり、色面の抽象にもなる。
写実とは、世界を正確に固定することではなく、世界の揺らぎに気づくこと。その揺らぎを、自分の内側でどう受け止めるかという問いです。
もしあなたが美術館で写実画を前にしたとき、ぜひ細部だけでなく、その画家がどんな呼吸で対象と向き合ったのかを想像してみてください。そこには、単なる再現を超えた、静かな対話があるはずです。
私にとって写実は、抽象へ向かうための準備運動であり、同時に原点でもあります。形の向こうに、まだ言葉にならない気配がある。その気配に触れたいと願うこと。それが、今日もキャンバスに向かう理由なのかもしれません。