存在と無のあわいに、色は立ち上がる
キャンバスに向かうとき、私はいつも「何かを描こう」としているのではないのかもしれません。
むしろ、何もないところに、何かが現れてくる瞬間を待っているのだと思います。
真っ白な支持体は、単なる空白ではありません。
それは、まだ形を持たない可能性であり、沈黙のようなものです。
今日は、その「存在」と「無」のあわいについて、少し考えてみたいと思います。
無は、本当に何もないのだろうか
私たちは「無」と聞くと、空っぽの状態を想像します。
けれど制作の現場で感じる無は、決して空虚ではありません。
描き始める前のキャンバスには、すでに光が落ち、空気が触れ、私の呼吸が反射しています。
そこには、まだ視覚化されていないだけで、多くの気配がある。
私はときどき、音楽を流しながら制作を始めます。
バッハの緩やかな旋律や、静かなジャズのピアノ。音が空間を満たすと、白い画面もまた、無音ではなくなります。
無とは、欠如ではなく、満ちる前の状態なのではないか。
そう思うようになってから、私は白を恐れなくなりました。
存在は、主張ではなく揺らぎ
一筆、色を置く。
それだけで、画面には「存在」が生まれます。
しかし、その存在は確固としたものではありません。
次の一筆で簡単に覆われ、拭い取られ、あるいは滲みの中に溶けてしまう。
私は、強い輪郭を持つ形よりも、消えかけている痕跡に心を惹かれます。
そこには、存在し続けようとする力と、無へ戻ろうとする静かな流れが同時に宿っているからです。
抽象画は、何かを「描く」よりも、何かが「在る」状態を探る行為に近いのかもしれません。
それは説明できる対象ではなく、ただ感じ取るしかないものです。
消すこともまた、描くこと
制作の途中で、私はよく絵を拭い取ります。
描いたはずの層を削り、布でこすり、痕跡だけを残す。
そのとき、画面は一度「無」に戻るように見えます。
けれど完全に消えることはありません。
下層の色は薄く残り、時間の堆積として画面にとどまる。
私はこの過程に、どこか救われる思いがします。
存在は、完全には消えない。
そして無もまた、すべてを飲み込む闇ではない。
私たちの記憶や感情も同じではないでしょうか。
消したつもりの出来事が、ある光の角度でふいに浮かび上がることがある。
存在と無のあわいに立つ
完成とは、何かが満たされた状態ではなく、これ以上触れないという静かな判断です。
描き足せば存在は強くなるかもしれない。けれど同時に、無の余白が失われてしまう。
私はいつも、その境界に立って迷います。
あと一筆か、それとも筆を置くか。
存在と無は対立しているのではなく、互いを引き立てる関係にあるのだと思います。
濃い色は、周囲の空白によって呼吸し、余白は、そこに置かれた一点によって意味を持つ。
もしこの文章を読んでくださっているあなたが、いま何かを始めようとしているなら。
無を恐れなくてもいいのだと思います。そこには、まだ形にならないだけの豊かさがある。
そして、何かが確かに在ると感じたとき、その小さな存在をそっと受け入れてみてください。
私の絵は、今日もそのあわいに立ちながら、静かに揺れています。