触れずにいるという親密さ
作品との距離について、よく考えます。
描いている最中の私は、キャンバスにかなり近づいています。ほとんど触れるほどの距離で、色のにじみや、筆の跡、絵の具のわずかな厚みを確かめる。そのとき私は、世界のすべてがこの平面に集約されているような感覚の中にいます。
けれど、不思議なことに、その距離のままでは作品の全体は見えません。近づけば近づくほど、細部は見えても、呼吸は分からなくなる。今日は、その「作品との距離」について、少しだけお話ししてみたいと思います。
近づくことで見えるもの
制作の初期段階では、私はほとんど画面に張りつくようにしています。絵の具が混ざり合う瞬間、乾く前の微細な揺らぎ、偶然できたかすれ。そうしたものは、距離を取っていては見えません。
細部には、作為よりも正直なものが現れます。意図していない線、思いがけず残った跡。そこに、私の迷いやためらいが静かに刻まれている。
近づくことは、自分の未完成さと向き合うことでもあります。うまくいっていない部分は、容赦なく目に入ります。誤魔化しは効きません。それでも私は、いったん徹底的に近づきます。逃げずに見るために。
離れることで分かること
しかし、ある瞬間に私は数歩後ろへ下がります。アトリエの壁際まで歩き、しばらく黙って眺める。そのとき初めて、画面の「呼吸」のようなものが見えてきます。
全体の重心はどこにあるのか。色はぶつかり合っていないか。静けさは保たれているか。
離れることで、私は作品を他人のように見ることができます。自分の手から一度、切り離す。その距離があるからこそ、冷静さが生まれます。
近さが情熱だとすれば、距離は理性なのかもしれません。どちらか一方では足りない。行き来することが必要なのだと、制作を続ける中で少しずつ分かってきました。
完成を決める距離
作品が完成する瞬間は、実は「最も遠くに立っているとき」に訪れることが多いのです。
近くで見れば、まだ手を入れられる部分はいくらでもあります。もう一色重ねることもできるし、質感を強めることもできる。けれど、遠くから見たときに、画面が静かに均衡しているなら、私はそこで筆を置きます。
それ以上近づくことは、親切ではないと感じることがあるからです。作品にも、息をする余地が必要なのだと思います。
触れずにいるという選択。それは突き放すことではなく、信じることに近い。
見る人との距離
展示の場では、さらに別の距離が生まれます。見る人は、自由な位置に立ちます。近づく人もいれば、少し離れて全体を見る人もいる。
私はその距離をコントロールすることはできませんし、するべきでもないと思っています。
それぞれの立ち位置から、違う景色が見える。それでいい。むしろ、その余白こそが作品の一部なのかもしれません。
私がアトリエで繰り返している「近づくこと」と「離れること」は、見る人の中でも静かに行われているのだと想像しています。
作品との距離は、固定されたものではありません。揺れ動きながら、関係は変わっていく。
今日も私は、キャンバスに近づき、そしてまた離れます。その往復のなかで、少しずつ作品が私の手を離れていく。その過程を、静かに見届けることが、いまの私の仕事なのだと思っています。