意識と無意識の狭間で、色はほどける
制作をしていると、ときどき自分がどこにいるのか分からなくなる瞬間があります。
目は確かにキャンバスを見ている。手も確かに筆を握っている。けれど、判断しているのが「自分」なのかどうかが、曖昧になるのです。
私はその状態を、意識と無意識の狭間と呼んでいます。今日はその曖昧な場所について、静かに書いてみたいと思います。
考えているのに、考えていない時間
描き始めは、とても意識的です。どの色を置くか、どこを空けるか、どの程度まで重ねるか。構図やバランス、これまでの経験も総動員されます。まるで設計図を引くように、慎重に進めます。
けれど、ある地点を越えると、思考は少しずつ静まっていきます。音楽を流しているときもあれば、無音のままのときもある。いずれにしても、頭の中の言葉が減っていきます。
色を重ねる。削る。乾くのを待つ。その繰り返しのなかで、判断はしているのに、言語化はしていない。
「ここだ」という感覚だけが、手を動かします。
この感覚は、説明しようとすると途端に逃げてしまいます。けれど確かに存在している。意識は消えていない。けれど、前面には出ていない。そんな状態です。
無意識は、過去の集積
無意識というと、どこか神秘的なもののように思われがちです。けれど私にとってそれは、これまでに見てきたもの、聴いてきた音楽、読んできた言葉、触れてきた光の集積です。
たとえば、バッハの静かな旋律。
たとえば、マイルス・デイヴィスの、間を含んだ音。
たとえば、若いころに読んだ文学の一節。
それらは制作中に思い出されるわけではありません。けれど、確実に染み込んでいる。
筆を置く角度や、色を引く速さのなかに、知らないうちに現れてくる。
無意識とは、偶然ではなく、蓄積なのだと思います。
だからこそ、日々どんなものに触れているかは、きっとそのまま画面に滲み出ます。
狭間に立つということ
では、意識と無意識のどちらが大切なのでしょうか。
私は、そのどちらかを選ぶ必要はないと感じています。
意識は、暴走を止めるためにある。
無意識は、閉じすぎた扉を開くためにある。
どちらかだけでは、絵は固くなるか、散漫になるかのどちらかです。
そのあいだに立ち続けること。片足は冷静さに、もう片足は曖昧さに置くこと。
制作とは、その微妙な均衡を保つ行為なのかもしれません。
コントロールを手放す勇気
すべてを理解し、すべてを説明できる状態で完成させることは、ある意味で安心です。けれど私は、少しだけ説明できない部分を残しておきたいと思っています。
描いた本人にも分からない余白。
意図したのか、偶然なのか判別できない痕跡。
そこに、見る人の時間が入り込む余地が生まれるからです。
意識と無意識の狭間で生まれた曖昧さは、決して未完成ではありません。
それは、他者に開かれた余白なのだと思います。
あなたの中の狭間
絵を描かない人でも、この狭間に立つ瞬間はきっとあるはずです。
何かに没頭しているとき。気づけば時間が過ぎているとき。
考えているのに、考えていない。
選んでいるのに、選ばされているような感覚。
もしそんな時間があるなら、それはきっとあなたの中の無意識が静かに働いている証拠です。
意識と無意識の狭間は、特別な場所ではありません。
ただ少し、騒がしさから離れたところにあるだけです。
私は今日も、その場所に立ちながら、色を重ねています。