空を抱く小さな深淵
雨上がりの朝、アトリエへ向かう道にいくつもの水たまりができていました。
それはただの窪みに溜まった水にすぎないのに、なぜか足を止めてしまう瞬間があります。
今日は、その「水たまり」という存在について、静かに考えてみたいと思います。
反転する世界
水たまりをのぞき込むと、そこには空があります。雲があり、電線があり、ときには自分の顔さえ映り込みます。けれど、それは実際の空ではありません。上下が反転し、わずかな揺らぎで形を変える、不安定な世界です。
私は抽象画を描くとき、この「反転」という感覚を大切にしています。目に見えているものを、そのまま描こうとはしません。むしろ、見えているはずのものが、別の角度から見たときにどう変わるのか。その曖昧な境界にこそ、絵の入口があるように思うのです。
水たまりの中の空は、本物よりも繊細です。風が吹けば歪み、誰かが通れば砕け散る。その儚さは、私たちが日々「確かだ」と思っている世界の頼りなさを、そっと教えてくれているようでもあります。
だから私は、水たまりを見ると、キャンバスのことを考えます。平らな布の上に広がる色の層は、どこか水面に似ています。そこに何を映し込むのか。あるいは、何も映さず、ただ揺らぎだけを残すのか。
踏み込むという行為
水たまりは、避けるものでもあります。靴を濡らしたくないから、私たちは無意識にそれをよけます。けれど、子どもの頃はどうだったでしょうか。長靴を履いて、わざと跳ねさせた記憶はありませんか。
私は制作に行き詰まったとき、あえて「濁り」の中に踏み込むことがあります。整えられた構図や、美しくまとめた色調を壊してみる。計算を崩し、偶然に任せる。水面に石を投げるような行為です。
その瞬間、像は崩れます。せっかく映っていた空は歪み、形は失われます。でも、その歪みの中にしか現れない線や、偶然混ざり合う色があります。私はそれを拾い上げるようにして、次の一筆を決めます。
水たまりは、ただ静かに映すだけの存在ではありません。触れれば応答し、揺らせば変わる。そこには、世界との小さな対話があります。
絵を描くということも、きっと同じです。世界をそのまま写すのではなく、少し揺らしてみる。問いかけるように、触れてみる。そのとき初めて、自分でも予想していなかった景色が立ち上がることがあります。
乾いてゆく時間
水たまりは、永遠ではありません。晴れれば、いつの間にか消えてしまいます。さっきまで空を抱いていた場所は、ただのアスファルトに戻る。
その消失は、どこか寂しくもありますが、同時に潔さも感じます。すべてを留めておく必要はない、と言われているようです。
私はときどき、描いた絵をしばらく見つめてから、上から別の色を重ねることがあります。気に入っていた層が、見えなくなることもあります。それでも、その下に沈んだ色は、完全には消えていません。乾いた水たまりの痕跡のように、目には見えなくても、確かにそこに残っています。
水たまりは、ほんのひととき現れて、世界を反転させ、そして静かに消えていきます。その短い時間の中に、私は絵を描く理由のようなものを感じます。
もし今日、足元に小さな水たまりを見つけたら、少しだけ立ち止まってみてください。そこには、もう一つの空が広がっているかもしれません。そして、その揺らぎの中に、あなた自身の輪郭も、やわらかく映っているはずです。