風を描くということ
風を見たことがありますか、と問われれば、私たちは少し戸惑います。風はいつも確かにそこにあるのに、目で捉えることはできません。揺れる木の葉や、なびくカーテン、波立つ水面を通して、間接的にその存在を知るだけです。抽象画を描くとき、私はよく「風」を思います。形を持たず、しかし確かに世界を動かしているもの。それをどうやって画面にとどめるのか。それが、私にとって長く続く問いです。
見えないものの輪郭
風は触れることができません。手を伸ばしても、掴んだと思った瞬間にすり抜けてしまう。それでも、頬に当たる冷たさや、髪を乱す力で、私たちはそれを感じます。私はキャンバスの前に立つとき、この「感じられるが、見えない」という状態を大切にしています。具体的なモチーフを描くのではなく、風が通り過ぎた痕跡のようなものを、色と線で探していくのです。
クラシック音楽を聴きながら制作することが多いのですが、例えば弦楽器のゆるやかな旋律が重なり合うとき、そこには音と音のあいだに微かな空気の流れを感じます。音そのものよりも、その余白に宿る気配。風もまた、物と物のあいだを通り抜ける存在です。だから私は、塗り重ねるだけでなく、あえて塗らない部分を残します。色と色の隙間に、風の通り道をつくるように。
風を描こうとするとき、強さに目が向きがちです。嵐のような激しさや、突風の荒々しさ。しかし、私が惹かれるのはむしろ、名もないそよ風です。誰かの記憶の片隅にある、春先のやわらかな空気。夕暮れに頬を撫でる静かな流れ。その曖昧さを画面に置きたいと思うのです。はっきりしないからこそ、人それぞれの記憶が入り込む余地が生まれるのではないかと感じています。
抽象画は、ときに「何を描いているのか分からない」と言われます。けれど、風を思い出してください。私たちは風そのものを見たことがないのに、それを疑うことはありません。見えないものを信じる力は、誰の中にもある。私はその力に静かに委ねたいのです。作品を前にしたとき、見る人が自分の中の風を感じてくれたら、それで十分だと思っています。
流れの中に身を置く
制作の時間は、私にとって風の中に立つことに似ています。最初から完成の形が見えているわけではありません。むしろ、どこへ向かうのか分からない流れの中に身を置き、色の動きに耳を澄ませる。絵の具を置いた瞬間、画面はわずかに呼吸を変えます。その変化に応じて、次の一筆を決めていく。自分が描いているというより、風に導かれている感覚に近いのです。
哲学や文学を読むと、「存在とは何か」という問いに何度も出会います。風は存在しているのか、それともただの現象なのか。そんな議論もありますが、私は難しく考えすぎないようにしています。風が吹けば、心が少し軽くなる。その事実だけで、十分ではないかと思うのです。絵もまた、理屈より先に、感覚として立ち上がるものです。
ジャズを聴いていると、即興の演奏が思いがけない方向へ流れていく瞬間があります。予定調和を裏切りながら、しかし全体としては不思議と調和している。その自由さは、風の動きとよく似ています。制作でも、あらかじめ決めた構図を手放すことがあります。偶然に見えるにじみや、かすれを、そのまま受け入れる。風は制御できないからこそ、美しいのだと思います。
風を描くということは、固定された形を疑うことでもあります。私たちはつい、分かりやすい輪郭を求めてしまう。しかし、世界の多くは流れ続けています。関係も、感情も、時間も。キャンバスの上でその流れを止めずにいられるかどうか。それが私にとっての挑戦です。
もし作品の前で、少しでも空気が動くような感覚を覚えたなら、それはきっとあなた自身の内側の風です。私はただ、そのきっかけを差し出しているに過ぎません。今日もまた、目に見えないものの気配を探しながら、静かに筆をとります。風はどこから来て、どこへ向かうのか。答えは分からないままですが、その問いとともにある時間こそが、私の制作そのものなのです。