時間の手触りを探して
アトリエでキャンバスに向かっていると、ときどき「時間」というものの正体がわからなくなります。 時計の針は進んでいるのに、私の内側では止まっているような感覚。 あるいは、ほんの数分のはずが、どこか遠くまで歩いてきたような疲労を覚えることもあります。
今日は、私が絵を描くときに感じている「時間」について、少しだけ言葉にしてみたいと思います。
流れる時間と、沈む時間
私たちは普段、「時間は流れるもの」だと教えられてきました。 朝が来て、昼になり、夜が訪れる。季節は巡り、歳を重ねる。 その流れの中で、私たちは仕事をし、誰かと出会い、別れ、また次の一日へと向かいます。
けれど、絵を描いているとき、時間は必ずしも流れているようには感じません。 むしろ、沈んでいくような感覚に近いのです。
筆を持ち、最初の一線を引く。 その瞬間、キャンバスの白は、単なる「面」ではなくなります。 そこには過去の逡巡や、さきほど聴いていた音楽の余韻や、昨日の会話の断片が、うっすらと沈殿している。 時間は前に進むのではなく、層になって重なっていくのだと感じることがあります。
たとえば、クラシック音楽を聴きながら制作していると、ある旋律が何度も回帰します。 同じ主題が形を変え、色合いを変え、また現れる。 その構造に触れていると、「進む」というより「深まる」という言葉のほうが近い気がしてきます。
私の抽象画も、どこかでそれに似ているのかもしれません。 色を重ねるたびに、新しい時間が生まれるのではなく、すでにあった時間が姿を現す。 そんな感覚です。
時計では測れないもの
制作には、集中が必要です。 しかし、集中という言葉もまた、どこか表面的に思えます。 本当に近いのは、「没頭」というよりも、「同調」に近いかもしれません。
自分の内側にあるリズムと、キャンバスの前の静けさが、ゆっくりと重なっていく。 そのとき、外の時間は遠のきます。 電話の着信も、窓の外の車の音も、どこか別の層にあるように感じられる。
不思議なのは、そうした時間を過ごしたあと、私は少しだけ現実に戻りやすくなることです。 日常の忙しさに追われるとき、時間は細かく分断され、管理され、追い立てられるものになります。 けれど、制作の時間を通ると、時間は再びひとつのまとまりとして感じられる。
それは効率の問題ではありません。 むしろ、非効率で、遠回りで、成果も保証されない時間です。 それでも私は、その「時計では測れない時間」に身を置くことで、自分の輪郭を確かめているのだと思います。
抽象画は、具体的な物語を語りません。 だからこそ、観る人それぞれの時間が入り込む余地がある。 過去の記憶や、まだ言葉にならない感情が、色と形のあいだに差し込まれていく。
もし、私の絵の前で立ち止まってくださる方がいるなら、 その方の時間が、そっとキャンバスの中に溶け込んでいけばいい。 私はただ、そのための「器」のようなものを作っているのかもしれません。
時間は、取り戻すものでも、追い越すものでもなく、 ときに立ち止まり、耳を澄ませることで、ようやく手触りを持つ。
今日もまた、静かなアトリエで、時間の層に触れながら、 私は一枚のキャンバスに向かっています。