2026.02.20 · JOURNAL

マッカランと絵画

マッカランと絵画

夜の制作がひと段落すると、小さなグラスに琥珀色の液体を注ぎます。ザ・マッカラン。その香りをゆっくりと立ち上らせながら、私はキャンバスを振り返ります。ウイスキーを飲むために絵を描いているわけではありませんし、絵を描くために飲んでいるわけでもありません。ただ、不思議なことに、この蒸留酒の時間は、私の制作とどこかで静かに響き合っています。

今日は、マッカランと絵画について。味や銘柄の優劣ではなく、あの深い琥珀色と、私の抽象画がどこで交差しているのかを、少しだけ言葉にしてみたいと思います。

樽の時間と、絵の時間

マッカランの個性は、シェリー樽による熟成にあると言われます。長い年月、木の内部で静かに呼吸を繰り返し、色と香りを深めていく。その過程は外からはほとんど見えません。ただ、確かに時間は液体の中に折り重なっていきます。

絵も同じだと感じることがあります。キャンバスの上に置かれた一筆は、瞬間の動きのように見えて、実はその背後に何層もの時間が沈んでいます。読んできた本、聴いてきた音楽、誰かとの会話、孤独な夜。そうしたものが、直接描かれることはなくても、色の選び方や筆の速度に滲み出る。

ウイスキーの熟成は、削ぎ落とすことではなく、受け入れることの積み重ねのように思えます。木の成分を受け取り、空気を受け入れ、ゆっくりと変化する。私の制作もまた、何かを足し続けるというより、時間を受け入れる作業なのかもしれません。焦って完成させようとすると、絵は薄くなります。急がずに寝かせると、思いがけない深みが生まれることがあるのです。

琥珀色という深度

マッカランをグラスに注いだときの、あの深い琥珀色。光を透かすと、金とも赤ともつかない揺らぎが見えます。私はその色を眺めるのが好きです。飲む前の、ほんの短い観察の時間。色の奥に、見えない層があるように感じるのです。

抽象画において、色は単なる装飾ではありません。感情の温度であり、思考の速度でもあります。黒に近い茶を重ねるとき、私はいつも「深さ」を探しています。暗い色を置くことが目的ではなく、その奥に微かな光を宿らせたい。マッカランの琥珀色も、単なる濃さではなく、内部に揺らぐ光があるからこそ魅力的なのでしょう。

私はよく、画面の一部にだけ金に近い色を忍ばせます。それは主張するためではなく、呼吸のためです。重い色調の中に、ほんの少しの光があると、画面は閉じずに済む。ウイスキーの香りに感じるレーズンやオレンジピールのニュアンスのように、わずかな明るさが全体の印象を変えるのです。

静かな対話

制作の後にマッカランを口に含むと、甘さの奥にほのかな苦みが現れます。その複雑さは、単純な「おいしさ」という言葉では言い尽くせません。私はその曖昧さに惹かれます。はっきりしすぎないこと。説明しきれない余白があること。

抽象画もまた、説明から少し距離を取ったところに存在しています。何が描かれているのかを明確に示さない代わりに、見る人の中にある記憶や感情を呼び起こす。ウイスキーを味わうとき、人それぞれが違う香りを感じるように、絵もまた、人の数だけ解釈が生まれてほしいと思っています。

私はグラスを傾けながら、今日の一枚を思い返します。あの筆致は少し強すぎただろうか。あの余白は狭すぎなかったか。ウイスキーが喉を通る感覚とともに、画面のバランスをもう一度考える。そうした静かな対話の時間が、次の制作へと繋がっていきます。

酔わないための距離

誤解のないように言えば、私は酔うために飲んでいるわけではありません。むしろ、酔いすぎないことを大切にしています。ほんの少し感覚が柔らぐ程度。その曖昧な揺らぎが、思考をほどよく解きほぐしてくれる。

絵も同じです。感情に飲み込まれてしまうと、画面は重くなりすぎます。冷静すぎると、今度は乾いてしまう。その間にある、かすかな揺れを探す。マッカランのグラスは、そのバランスを思い出させてくれる存在なのかもしれません。

制作とは、極端に振り切ることではなく、深さと軽さのあいだを歩くこと。琥珀色の液体が、光と影を同時に抱えているように、私もまた、静けさと情熱の両方を画面に置きたいと願っています。

もしあなたが、夜に一杯のウイスキーを手にすることがあれば、その色を少しだけ眺めてみてください。そこには、時間が溶け込んでいます。そしてもし、どこかで私の絵を目にする機会があれば、その色の奥にある時間にも、ほんの少しだけ思いを巡らせてもらえたら嬉しいです。

マッカランと絵画。どちらも、急がずに味わうことでしか見えてこない世界がある。私はこれからも、その静かな深みの中で、筆を置き続けたいと思います。