2026.02.18 · JOURNAL

余白を楽しむ

余白を楽しむ

キャンバスの前に立つとき、私はいつも「何を描くか」よりも「どこを描かないか」を考えます。抽象画を描いていると、色や線を重ねることに意識が向きがちですが、本当に作品の呼吸を決めているのは、実はその間にある余白ではないかと、最近とくに思うようになりました。余白は単なる空白ではありません。それは、音楽でいえば休符のようなもの。沈黙のようでいて、作品全体を支える静かな力を持っています。

描かないという選択

若いころの私は、キャンバスを埋め尽くすことで安心していました。白い部分が残っていると、どこか未完成のように感じてしまったのです。しかし、ある日ふと、塗り重ねた色の下に息苦しさを覚えました。まるで、言葉を詰め込みすぎた文章のように、読む隙間がない。そこで筆を止め、何も足さずに一晩置いてみました。翌朝、そこに広がっていたのは「足りない」ではなく、「ちょうどいい」静けさでした。

余白は勇気を試します。何かを足せば、それらしく整って見えるかもしれない。でも、あえて足さない。そこに留まる。描かないという選択は、逃げではなく、信頼なのだと思います。色と色のあいだにある空気を信じること。見る人の感覚を信じること。私自身の迷いを、そのまま画面に残すこと。

クラシック音楽を聴いているとき、とくにそのことを強く感じます。例えばベートーヴェンの緩徐楽章には、音と音のあいだに深い呼吸があります。そこでは旋律そのものよりも、音が消えた後の空間が心に残る。ジャズでも同じです。マイルス・デイヴィスのトランペットは、すべてを語りません。むしろ語らないことで、こちらに想像を委ねてきます。絵画の余白もまた、その「委ねる」場所なのだと思います。

余白は対話の場所

余白は、鑑賞者との対話のための空間でもあります。画面が情報で埋め尽くされていると、見る人は受け取るだけになります。しかし、余白があると、人はそこに自分の記憶や感情を置き始めます。空白は、他者が入り込む余地をつくる。だからこそ、私は最近、あえて大きな白を残すようになりました。

それは、私自身の生活にも似ています。予定を詰め込みすぎると、心はすぐに疲れてしまう。けれど、何も予定のない時間がぽつりとあるだけで、呼吸が深くなる。余白は怠惰ではなく、次の一筆のための準備なのです。創作においても同じで、描かない時間があるからこそ、描く瞬間が澄んでくる。

文学の世界でも、余白は重要です。行間に漂う感情、語られない背景、あえて説明されない人物の心情。それらが読者の想像力を刺激します。私は、絵の中にその「行間」をつくりたいと思っています。色彩のあいだに、線の途切れたところに、沈黙を置く。そこに立ち止まってもらえるように。

抽象画は、ともすれば「何を描いているのかわからない」と言われます。でも、私はそれでいいと思っています。わからないという状態の中にこそ、人は自分自身を見つめます。余白は、そのための鏡のようなものかもしれません。はっきりと形を与えないことで、見る人それぞれの形が立ち上がる。

最近の作品では、以前よりも色数を減らし、構図も単純にしています。足し算ではなく、引き算へ。描き込みたい衝動を抑え、キャンバスの白と対峙する。その白は決して無ではなく、無限の可能性を秘めた場です。そこに一筆を置くとき、私はいつも少し緊張します。余白が壊れてしまわないように、と。

もし作品の前に立ったとき、どこか静かな広がりを感じてもらえたなら、それはきっと余白の働きです。そこに風が通り抜けるような感覚があれば、私は嬉しい。余白を楽しむとは、何もないことを受け入れること。満たされていない状態を恐れないこと。そして、その空間を他者と分かち合うことなのだと思います。

今日もまた、私は白いキャンバスの前に立ちます。すべてを描こうとはしない。少しだけ残しておく。その残された空間が、作品の呼吸となり、誰かの心の中で静かに広がっていくことを願いながら。