孤独のなかで、色はゆっくりと呼吸する
制作をしているとき、私はひとりです。アトリエの扉を閉め、外界の音を遠ざけ、キャンバスと向き合う。その時間は、静かで、どこか緊張を孕んでいます。孤独という言葉には、寂しさや欠落といった響きがありますが、私にとってそれは、むしろ創作のための大切な余白です。
誰とも話さず、誰にも見られず、ただ色と向き合う時間。そこでは言葉よりも先に、かすかな感情の波が立ち上がります。今日は、その「孤独」と絵画の関係について、少しだけ綴ってみたいと思います。
孤独は、欠けているのではなく、澄んでいる
若い頃は、孤独をどこか恐れていました。誰かとつながっていないと、自分が希薄になってしまうような気がしていたのです。しかし、制作を続けるうちに気づきました。孤独とは、何かが欠けている状態ではなく、むしろ余分なものが削ぎ落とされた状態なのだと。
例えば、クラシック音楽を聴くとき。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏を小さな音で流しながら、色を重ねていくと、音と色が静かに呼応します。そこに誰かの評価はありません。ただ、自分の内側で鳴っている何かと、外から流れてくる音が、そっと重なっていく。その瞬間、孤独は透明になります。
私は抽象画を描いていますが、具体的なモチーフを持たない分、自分の内面と向き合う時間が長くなります。形に逃げることができない。物語に頼ることもできない。ただ、色と質感、リズムだけで構成していく。その作業は、誰かと賑やかに議論しながらできるものではありません。むしろ、ひとりであることによって、はじめて聴こえてくる微細な感覚があります。
孤独とは、澄んだ水のようなものかもしれません。水が濁っていると、底に沈んだ石は見えません。しかし、静かにしていれば、やがて水は透明になり、そこにあるものが姿を現します。制作における孤独は、その透明さを取り戻すための時間なのだと感じています。
孤独の向こう側に、他者がいる
とはいえ、私は孤独を賛美したいわけではありません。人と語り合うこと、誰かの言葉に揺さぶられることも、制作にとって大切です。文学や哲学に触れるたび、自分の視野がわずかに広がるのを感じます。しかし、それらを本当に自分のものにするには、一度、孤独の中に持ち帰る必要があります。
たとえば、小説を読んで心が震えたとき。その震えは、読書の場ではまだ他者の言葉に触れている状態です。それをキャンバスの前に持ち込み、ひとりで反芻する。色に置き換え、筆の速度に変換する。そのプロセスは、とても静かで、とても個人的です。けれど、そこで生まれた画面は、やがて誰かの目に触れることになります。
私はときどき思います。孤独の中で描いた絵は、遠回りをして、誰かの孤独と出会うのではないかと。展示会場で、静かに絵の前に立つ人の姿を見ると、その人もまた、ほんのひととき、孤独になっているのだと感じます。そこでは言葉は交わされませんが、色と色のあいだに、目に見えない橋がかかっている。
抽象画は、明確な答えを提示しません。だからこそ、観る人は自分自身の感情を投影します。孤独の時間に描いた線や滲みが、別の誰かの記憶や痛み、あるいは静かな喜びと重なることがある。その瞬間、孤独は閉じた空間ではなく、ひらかれた場へと変わります。
私にとって絵を描くことは、孤独になることと、孤独を手放すことのあいだを行き来する営みです。アトリエでひとり、色を重ねる。その静かな時間があるからこそ、誰かと無言でつながる可能性が生まれる。
今日もまた、キャンバスの前に立ちます。孤独を恐れず、しかし溺れもせず。澄んだ水の底に沈んでいる、まだ名前のない感情を、そっとすくい上げるために。